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フィリップ1世 (ヘッセン方伯) : ミニ英和和英辞書
フィリップ1世 (ヘッセン方伯)[ふぃりっぷ1せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [ほう]
  1. (n-adv,n) side 2. direction 3. way 
: [はく]
 【名詞】 1. count 2. earl 3. eldest brother 4. uncle 5. chief official 

フィリップ1世 (ヘッセン方伯) : ウィキペディア日本語版
フィリップ1世 (ヘッセン方伯)[ふぃりっぷ1せい]

フィリップ1世Philipp I., der Großmütige(寛大公),1504年11月13日 - 1567年3月31日)は、ヘッセン方伯(在位:1509年 - 1567年)。宗教改革プロテスタント側を支援し、ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒと共にシュマルカルデン同盟を結成して神聖ローマ皇帝カール5世に反抗した。
== 生涯 ==
1504年、ヘッセン方伯ヴィルヘルム2世と妃アンナ・フォン・メクレンブルク=シュヴェリーンの息子としてマールブルクに生まれる。フィリップがまだ幼時の1509年に父が梅毒で急死すると、その後見役を巡って母とヘッセンの騎士達との間で紛争が起こった。13歳の時、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世により正式な相続を認められるが、実権は母が握っていた。
1524年、折りしも始まっていた宗教改革ではプロテスタントの教義を支持し、宗教改革の後援者・推進役となる。1526年にホンベルク勅令を発して領内をプロテスタントで統一する。同年同じくプロテスタントのザクセン選帝侯ヨハンらと共にゴータ・トルガウ同盟を結成。1527年ドイツでは最初のプロテスタント大学となるマールブルク大学を設立。1529年マルティン・ルターフルドリッヒ・ツヴィングリらプロテスタントの指導者をマールブルク宗教会議に召集してその統一を図ったが、聖餐を巡る解釈で両者の対立が起きた為、意見統一はならなかった。
フィリップにとってこの会議は宗教的な意味合いよりもむしろ、プロテスタントを糾合して、カトリックの守護者である神聖ローマ皇帝カール5世に対抗する意味をもっていた。フィリップはシュパイアーで行われた帝国議会でも、少数派のプロテスタント諸侯の代表格だった。1531年、プロテスタント諸侯やザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ(ヨハンの子)と共にシュマルカルデン同盟を結成。1534年にはラウフェンの戦いに勝利して、ハプスブルク家の統治下におかれていたヴュルテンベルクを、追われていたヴュルテンベルク公ウルリヒの手に取り戻した。
カール5世との暗闘は激化し、1546年にはシュマルカルデン戦争に至るが、1547年ミュールベルクの戦いで皇帝軍に敗れて捕虜となり、オランダで5年間の幽囚生活を送った。1552年に解放されたが、屈辱を忘れないためにオランダからの帰路にあたる領内のエッシェンブルクに植樹した。この木は数年前まで残っていたが、倒れたために新しい木に植え替えられた。
晩年は内政に専念する一方、プロテスタントの統一に尽力した。シュマルカルデン戦争で抱えた負債を解決する為行政改革に取り組み、酒税などを導入した。こうした改革により、ヘッセンは中世的な荘園支配体制を脱して近世的行財政に移ったと評価されている。フィリップはまた支払い能力に応じた財産税も導入している。彼の肝煎りで実現した堅信礼やヘッセンの福祉協会、騎士団は今も存続している。フィリップが設立した大学は1934年に設立者の名前に因んでフィリップス大学と改称された。「寛大公」というあだ名は後世の歴史家によるものであるが、フィリップが政治や戦争の場面で示した個人的寛大によるものである。
1567年にカッセルで死去。ヘッセン方伯家の古い相続慣習に従い、その所領は4人の息子の間で分割相続された。すなわち、長男ヴィルヘルム4世ヘッセン=カッセルを、次男ルートヴィヒ4世ヘッセン=マールブルクを、3男フィリップ2世ヘッセン=ラインフェルスを、4男ゲオルク1世ヘッセン=ダルムシュタットを継承した。分割され細切れになったヘッセンは、以後神聖ローマ帝国内での政治的重みを失ってしまった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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